わずか8か月の大工事~1~

2018年9月7日

大和川の付け替え工事

 元禄16年(1703)10月28日、大和川の付け替えが正式に発表され、普請奉行として大久保甚兵衛忠香と伏見主水為信、助役として姫路藩主の本多中務大輔忠国が任命されました。これによって、15万石の姫路藩が付け替え工事を担当することになったのです。これだけの大工事を一藩で行わなければならないことに姫路藩は驚いたでしょうが、幕府の命令を断れるはずもなく、粛々と準備を進めたようです。

 翌元禄17年(1704)2月上旬に大坂に着いた大久保甚兵衛と伏見主水は、16日に摂津国住吉郡喜連村に普請役所を設置し、18日から20日にかけて川下から新川筋のぼう(※片へんに旁)示【範囲を明らかにすること】を行い、姫路藩は川下から水盛(みずもり、高さの測量)を始め、27日に工事に着手しました。

 工事は進み、海から10町(約1.1km)の遠里小野村付近まで進んだ3月21日、姫路藩主の本多忠国が急死しました。これによって姫路藩の家臣は全員引き上げ、工事は中断することになりました。しかし、幕府は工事継続の準備を進め、3月30日に付け替え予定地の船橋村から幕府が直営で工事を再開しました。そして、次の日4月1日には、新たな手伝い大名として、和泉国岸和田藩主の岡部長泰5万3千石、摂津国三田藩主の九鬼隆久3万6千石、播磨国明石藩主の松平直常6万石の3藩を命じました。3藩は、川辺から浅香山谷口までの69町を三等分した23町(約2.5km)をそれぞれ担当し、4月末から一斉に着工しました。

 さらに、6月28日には丹波国柏原(かいばら)藩主の織田信休2万石、大和国高取藩主の植村家敬(いえゆき)2万5百石を手伝いに追加し、堤の芝貼り、姫路藩普請場の堤増し、十三間川の掘足し、西除川の切違え、旧大和川の築留などが命じられました。

 このように、上流半分は幕府が、下流と周辺工事を手伝い大名が実施し、同時に着工したため工事は順調に進み、10月13日には新川切通し、つまり新大和川に水を流すことによって、つけかえ工事はわずか8か月で完了したのです。

(文責:安村俊史)

新大和川図
図:新大和川(川違新川図・中家文書)

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