柏原と明治維新9

2018年8月7日 (文化財課)

国豊橋と新大和橋

 明治になると、道路や鉄道などの交通も次第に整備されるようになりました。大阪から奈良へと向かう亀瀬越奈良街道の高井田村と国分村のあいだには、大和川を渡るために船による渡しがありました。しかし、小船では多くの荷物を運ぶことができません。天候にも左右され、増水時には何日も渡れないこともありました。人々が、橋を望んだのも当然のことだったのです。ここに、明治3年(1870)に架けられた橋を国豊橋といいます。国豊橋は、現在も国道25号が大和川を渡る橋となっています。

 国豊橋が架けられた当時は、長さ98間(178m)、幅1間(1.8m)、片手摺の橋でした。ここを荷車や馬が通ったのですが、危ない橋だったことでしょう。建設に要した総費用は787両余りで、このうち460両余りは街道周辺の村々からの寄付でまかないました。柏原近辺だけでなく、河内一円、奈良からも寄付が集まりました。それだけ架橋に期待する人たちがいたということです。しかし、それでも300両余りが足りません。その不足分は明治5年から9年まで、一人3文の通行料を徴収して補いました。

 新大和橋は、東高野街道が大和川を渡るところに架けられました。現在の近鉄道明寺線の横、柏原南口から対岸の船橋への橋です。この橋をなぜ新大和橋というのでしょうか。それでは、大和橋はどこにあるのでしょうか。実は大和橋は大和川の河口近くの紀州街道に架かる橋です。新大和橋を建設する際に、少しでも費用を安くおさえるために、当時架け替え工事が行われていた大和橋の工事中の仮設橋の材木を安価に購入して架けられたのが新大和橋だったのです。だから「新」なのです。

 新大和橋は明治7年(1874)2月に、400両余りで建設されました。やはり近隣から寄付を募り、不足分は数名の発起人が自腹をきって払ったということです。長さ108間(196m)、幅1間半(2.7m)、両手摺付きの橋で、国豊橋よりも立派な橋でした。

 明治になると荷車や牛馬の利用が多くなり、大和川への架橋は人々が待ち望んでいたものだったのです。

(文責:安村俊史)

太陽暦に関する史料
写真:国豊橋架橋に関する史料(北西尾家文書)

【特集展示のご案内】
平成30年6月11日(火)から9月9日(日)まで、明治維新150年特集展示「柏原と明治維新」を開催しています。
ぜひ、ご覧になってください。

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