柏原と明治維新8

2018年7月30日

太陽暦の採用

 太陽の動きを基準とする暦を太陽暦といいます。現在の暦は太陽暦ですが、日本では、明治5年(1872)まで天保暦とよばれる太陰太陽暦を使用していました。太陰太陽暦は、月の満ち欠けの周期(約29.5日)の12倍で1年を区分しますが、太陽の1年の周期と比べると、約11日不足することになります。そこで、季節のずれを修正するために、19年に7回の閏月を設けます。一般には陰暦や旧暦とよばれています。

 日本では、すでに16世紀末には太陽暦が伝わっていましたが、蘭学の普及によって、江戸時代後期に太陽暦への関心が高まり、明治になると、欧米と同じ太陽暦の採用を主張する人もあらわれました。

 明治政府は、太陽暦の採用には積極的ではありませんでしたが、急遽明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、太陽暦に変更しました。財政の窮乏に苦しむ政府は、役人への12月分の給与を節約できるという考えがあったようです。また、太陰太陽暦では明治6年に閏月があるので13か月になりますが、太陽暦では12か月です。役人の給料など必要な経費を節減するために太陽暦を採用することに急遽踏み切ったようです。しかし、人々の生活は混乱しました。そして、年中行事や農作業の暦として旧暦が残される地方が多かったのは、みなさんもご存知のことと思います。

 柏原村の柏元家文書に、明治5年(1872)11月15日付けの太政官布告が残されています。そこには、太陽暦への変更とともに、神武天皇即位をもって紀元と定めるため11月25日に祭典を執り行うことが通達されています。翌明治6年より、2月11日を神武天皇即位の日として紀元節と定められています。明治政府の独断による政策が、次々と採用されていったことがわかります。

(文責:安村俊史)

太陽暦に関する史料
写真:太陽暦に関する史料(柏元家文書)

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