三田家と寺田家3

2018年4月1日

柏原村の洪水

 ここでは、今町が成立することになった地元の事情を見ておきたいと思います。「河州志紀郡柏原村荒地開新町取立大坂より船致上下候様子書」(通称「柏原船由緒書」、貞享5年・1688、三田家文書)によると、元和6年(1620)に大和川の左岸堤防が切れて、柏原村に大きな被害をもたらしたということです。災害からの復興は、いつの時代にも大きな出費を伴うものです。その復興のために、志紀郡の代官であった平野の末吉孫左衛門長方(~1639)は、平野川に船を通すことを考えました。平野川は、柏原村から平野を通り大坂へと流れる旧大和川の流れの一つです。船で荷物を運んで、その利益で村を復興させようとしたのです。しかし、幕府の許可がおりず、復興も十分に進まないまま、寛永10年(1633)に再び大和川の水が柏原村を襲いました。このときには、左岸堤防が300間(540m)にわたって切れ、柏原村だけで35人が死亡、45軒の家が流されたという記録が残っています。そこで、孫左衛門は再び幕府に船の営業を求め、ようやく許可がおりることになりました。

 そのころの柏原村は、現在の柏原市と八尾市の市境付近、柏原市本郷3丁目の国道25号線本郷橋の西側一帯にありましたが、大きな被害を受けたため、400mほど南西の現在の本郷2丁目の地に移転することになりました。もと村のあった地には「古屋敷」の小字名が残り、洪水の砂が堆積したままで、江戸時代を通じて水田はつくれなかったようです。この地における発掘調査で、その洪水の跡を確認しています。

 一方、大和川左岸堤防に沿っては、古くから奈良街道が通じており、このころには街道沿いに商人が集住し、新町と呼ばれていました。現在の古町です。このあたりは、洪水被害はそれほどひどくなかったようです。

(文責:安村俊史)

柏原村耕地絵図トレース
図:柏原村耕地絵図トレース・天保14年(1843)【柏元家文書

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