三田家と寺田家1

2018年3月25日

今町と三田家・寺田家

 江戸時代の宝永元年(1704)に、大和川は柏原から西へと付け替えられました。それまでの大和川は、柏原から北北西へと流れ、その先の二俣で久宝寺川と玉櫛川に分かれていました。旧大和川の左岸に位置した柏原村は、明治まで河内国志紀郡柏原村でした。現在の柏原市本郷、大正、今町、古町に広がる大きな村で、文政11年(1828)の「柏原村明細帳」によると、村高は1172石余り、家数は257軒、人口は1,343人でした。

 大和川の付け替えによって、志紀郡は南北に分断されることになりましたが、その後も、大和川の南にあたる北条村や船橋村との交流は盛んだったようです。柏原村の中心は現在の本郷で、ここに多数の家屋が集まっていました。本郷とは、村の中心という意味です。これに対して少し離れた小さな集落は枝郷と呼ばれました。柏原村の枝郷として今町と古町があり、今町と古町は奈良街道沿いに続く商人のまちでした。とりわけ、今町は平野川を往来した柏原船の運航に携わる村外の人々が移り住むことによって成立したまちで、柏原村の経済、文化を牽引し、その後の柏原村、そして現在の柏原市の発展に大きな役割を果たすことになりました。

 江戸時代の奈良街道は、四天王寺付近から奈良へと続く重要な道で、古代の渋河道を継承する道でした。その後に整備された国道25号線とルートがほぼ重なっているため、江戸時代の景観が残っていないところが多いのですが、柏原市内では今町から古町にかけてと、国分本町付近には比較的良好な町並みが残っています。今町と古町の中間に位置するJR柏原駅前付近は駅前再開発ですっかり町並みが変わってしまいましたが、今町は今も旧奈良街道に沿った町屋が並ぶ景観が残っています。そして、その中心にあるのが三田家住宅と寺田家住宅です。三田家住宅は国の重要文化財に、寺田家住宅は国の登録文化財になっています。ここでは、江戸時代の三田家・寺田家の歴史を中心に、今町の発展について紹介してみたいと思います。

(文責:安村俊史)

今町の町並み
写真:今町の町並み

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