~和気清麻呂の大和川付け替え8~

2017年11月12日

渋河道と付け替え

 奈良時代に平城宮から難波宮への行幸路として天皇が利用した道は、竜田道、渋河道でした。大和川に沿った竜田道で生駒山地を越えると、大和川左岸堤防に沿った渋河道で四天王寺近くへ至り、そこから難波宮朱雀大路を北進して難波宮へ至ったと考えられます。

この道が整備されたのは、推古21年(613)のことと考えられます。『日本書紀』推古21年の条にみえる「難波より京に至る大道を置く」という記事に対応すると考えています。詳細は省略しますが、その渋河道の痕跡が、平野から北西へとまっすぐにのびる現在の国道25号と考えられます。この直線道は、明治の陸軍陸地測量部の地図にも明確な直線道として示されており、古代の直線斜向道と考えられます。ところが、平野から北西にのびる道路は、杭全付近で途切れ、そこから北西へは屈曲した道が続いています。ちなみに、この直線をまっすぐ北西へのばすと、四天王寺の南西角に至ります。おそらく、7世紀には平野から四天王寺まで直線道がのびていたのでしょう。

 この直線道が途切れるところから清麻呂の大和川付け替え痕跡をたどることができるのです。これは偶然の一致ではありません。清麻呂の付け替え工事によって、直線道としての渋河道は破壊されてしまったのです。直線道は清麻呂の付け替え工事によって寸断され、痕跡を留めなくなってしまったと考えられます。

 もう一つ、平野から渋川への直線道もその痕跡を留めていません。これは、7世紀には平野川の流量が少なかったために渋川へと直線道を設定できましたが、8世紀になって平野川が大和川の本流となったことによって、この間の道は、平野川の左岸、のちの奈良街道に相当する部分へと移されたのでしょう。

 直線道として設定された渋河道は、大和川の流れの変化と、清麻呂の付け替え工事によって、ルートの変更を余儀なくされたのでしょう。これも歴史です。

(文責:安村俊史)

渋川道推定ルート図
図8:7世紀の渋河道推定ルート

庚申堂南の道
写真8-a:付け替え痕跡と考えられる庚申堂南の道。

庚申堂の東側の道
写真8-b:庚申堂の東側の道。掘り下げ地から北を見る。

掘り下げ地より南
写真8-c:掘り下げ地から南を見る。正面はあべのハルカス

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