~天井川と洪水7~

2017年10月30日

もし付け替え工事がなかったら

 歴史に「もし」はないと言われます。それはそのとおりなのですが、「もし、大和川の付け替えがなかったら、大和川はその後どうなっていたのだろう」と考えてみることも必要でしょう。

 大和川は、昔から長瀬川筋が本流でした。長瀬川を中心に、やや西や東へ流路を変えながら流れていました。ところが、奈良時代になると平野川筋が本流になったようです。八尾市域の発掘調査で、7世紀代に幅の広い川であった現在の長瀬川周辺の川が埋まり、八尾市渋川付近で長瀬川から分流した平野川筋で規模の大きい川跡がみつかっています。長瀬川周辺に土砂が堆積して土地が高くなり、やや低いままであった平野川筋の流れが大きくなったのでしょう。それ以降、平野川筋の洪水が多くなり、その結果、和気清麻呂が上町台地を貫いて、平野川の水を直接海へ流す工事に着手することになったのです。

 ところが、平安時代以降は再び長瀬川筋が本流に戻ったようです。そして、江戸時代になると、こんどは玉櫛川筋が本流となりました。玉櫛川筋は生駒山地の山麓に近いため土地がやや高く、それまでは流量が少なかったようですが、長瀬川筋の川底が高くなったために玉櫛川筋の流量が増えたのです。これが、17世紀代の玉櫛川筋の洪水の頻発につながっています。二俣の玉櫛川に分流する地には、法善寺前の二重堤と呼ばれる堤が川の中に築かれていました。ところが、延宝2年(1674)の洪水でその二重堤がつぶれ、玉櫛川に流れ込む水量が多くなったのです。しかし、二重堤が築かれていたことから考えると、ある時期に玉櫛川の流量が増え、それを防ぐために築かれたのが二重堤だったと考えられます。ということは、二重堤が築かれる前から玉櫛川筋の流量が多くなっていたということです。

 そして、もし付け替え工事が行われていなければ、玉櫛川筋で洪水を繰り返し、深野池や新開池も大半が埋まってしまい、本流はまたもや長瀬川筋に戻っていたことでしょう。もしかすると、長瀬川と玉櫛川のあいだを流れる楠根川が大和川の本流になっていたかもしれません。そして、こんどはその周辺で洪水が繰り返されることになっていたことでしょう。

(文責:安村俊史)

堤切附箋図部分
図:「堤切所之覚附箋図」の法善寺前二重堤の部分、貞享4年(16897)(中家文書)

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