~天井川と洪水4~

2017年10月8日

天井川になった大和川

 当館に、中甚兵衛の子孫である中九兵衛氏から寄贈された、延宝3年(1675)の「古大和川附換前水害下調図(堤防比較調査図)」があります。この絵図をみると、旧大和川がどんな川だったのかわかります。絵図には、川幅、村ごとに管理する堤防の長さ、50年前と10年前に比較して川底がどれだけ高くなったか、周辺の田地より川底がどれだけ高いか、そして延宝2・3年(1674・1675)の洪水のときに、水面がどのくらいの高さまであったかなどを書き込んでいます。

 川幅は、大和川が石川と合流した地点で225間、以下川が分流する二俣までの川幅は169間、194間、210間となっています。それぞれ405m、307m、353m、382mです。のちに、このもっとも狭い部分に堤防が築かれ、大和川が付け替えられています。

 それでは、具体的に舟橋村・柏原村の部分の記述を見てみましょう。

「堤長五百五拾間程

   五拾年以来川筋壱丈弐尺高罷成

   田地より川九尺高

   寅卯ノ洪水堤馬踏より三尺下へ水付」

 50年の間に1丈2尺(3.6m)川底が高くなり、周辺の田よりも川底のほうが9尺(2.7m)高いと書かれています。延宝2・3年の洪水では、堤防の上面から3尺(0.9m)下まで水がきたということです。この記述を信じる限り、50年前の1626年には天井川ではなかったことになります。

 この絵図に基づいて、延宝3年当時に大和川の川底が周辺の土地よりどれだけ高かったのかに注目してみると、全域で3尺~1丈2尺(0.9~3.6m)の天井川になっていたことがわかります。とりわけ高いのが玉櫛川から分流した吉田川左岸で、9尺~1丈1尺(2.7~3.3m)となっています。中甚兵衛の今米村も1丈(3m)高くなっています。

 この絵図が、延宝3年の洪水直後につくられたものであり、洪水のために川底がかなり高くなっていることも考慮しておく必要があります。また、記述の内容が正確であるかどうかを確認することができないのですが、幕府へ提出するための史料とすれば、それほど誇張はないと思われます。このころには玉櫛川が大和川の本流となっていて、玉櫛川の天井川化が激しかったことは間違いないでしょう。

(文責:安村俊史)

古大和川附換前水害下調図
図:「古大和川附換前水害下調図(堤防比較調査図)」延宝3年(1675)(中家文書)

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