~和気清麻呂の大和川付け替え4~

2017年10月8日

和気清麻呂とは

 ところで、和気清麻呂とはどういう人物だったのでしょう。もっとも有名なのが、道鏡を天皇にするかどうかという宇佐八幡宮神託事件です。しかし、清麻呂の業績はそれだけではありませんでした。

 天平5年(733)、清麻呂は備前国藤野郡に生まれました。藤野郡はのちに和気郡と改称されています。現在の岡山県和気郡和気町周辺です。父は和気乎麻呂。

 清麻呂は、天平宝字年間(757~765)の初めのころに、孝謙天皇に近侍していた姉の広虫の推挙によって兵衛となったようです。天平神護元年(765)に従六位勲六等となり、その後、右少衛少尉、正六位上、従五位下、近衛正監と昇進し、神護景雲3年(769)の宇佐八幡宮神託事件となります。この事件については次回にみるとして、その結果、清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と名を変えられて因幡(鳥取県)員外介とされ、その直後に大隅(鹿児島県)へ配流となりました。

 称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位すると、もとの姓と位に戻され、豊前守となったようです。その後、桓武天皇の側近として活躍し、天応元年(781)に従四位下、延暦2年(783)には摂津大夫(長官)となりました。延暦3年(784)に長岡京の造営を建議し、延暦7年(788)には先に見た大和川の付け替え工事を行っています。

 長岡京造営が進まないとみた清麻呂は、延暦12年(793)に今度は平安京遷都を建議します。そして、延暦15年(796)には従三位、造宮大夫として、自ら平安京の造営に携わるようになります。この際に、息子の広世も造宮判官として造営を担当しています。

 大和川の付け替え工事や宮都造営を提案したり、実際に工事に携わっていたところをみると、清麻呂は土木事業に対する豊富な知識や技術をもっていたのでしょう。そして、延暦18年(799)2月21日に没しています。正三位、民部卿造宮大夫でした。ときに67歳。その死は惜しまれ、『日本後紀』に薨伝(その人物の略歴を記したもの)が記されるほどの人物でした。

(文責:安村俊史)

拾圓銀行券
写真4:昭和5年(1930)発行の拾圓銀行券。清麻呂の肖像画を採用している。

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