~和気清麻呂の大和川付け替え3~

2017年10月1日

清麻呂の大和川付け替え

 大和川の洪水が繰り返されることを憂えた和気清麻呂は、大和川の付け替えを考えるようになったようです。

『続日本紀』延暦7年(788)2月16日

 中宮大夫・従四位上で民部大輔・摂津大夫を兼任する和気朝臣清麻呂が言上した。「河内・摂津両国の国境に川を掘り堤を築いて、荒陵の南から河内川を西方に導き、海まで通そうと思います。そのようにすれば肥沃な土地がますます広がり、開墾をすることができます」と。そこでのべ二十三万人余りに食糧を支給してこの事業に従事させた。

 このとき、清麻呂は摂津国の長官でした。そして、延暦4年(785)の大洪水を間近に見ていたのです。ここに見える「荒陵(あらはか)」は、「荒陵寺」とも呼ばれた四天王寺のことでしょう。そして、「河内川」とは、このころ大和川の本流となっていた平野川のことでしょう。つまり、四天王寺の南に川を掘り堤を築いて、平野川の水を西の海へ流すことを計画したのです。上町台地横断水路です。これによって、洪水がなくなるだけでなく、肥沃な土地が開墾されることを目論んでいます。そして、この工事に動員された人がのべ23万人であったことがわかります。

 『続日本紀』には、この工事の結果は記されていませんが、『日本後紀』延暦18年(799)2月21日の和気清麻呂薨伝に、「費やす所巨多、功遂に成らず」とあるので、この事業が23万人もの人を動員しながら失敗に終わったことがわかります。

 江戸時代、宝永元年(1704)の大和川付け替え工事を遡ること900年余り。清麻呂の付け替え工事は失敗に終わったのですが、この時代に大和川を付け替えようとした人物がいたことは記憶に留めておきたいと思います。

(文責:安村俊史)

清麻呂の付け替え工事
図3:和気清麻呂の大和川付け替え工事

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