~和気清麻呂の大和川付け替え1~

2017年9月18日

奈良時代の大和川

 延暦7年(788)、和気清麻呂という人物が、大和川の付け替えを試みたことが『続日本紀』などに記されています。江戸時代の大和川付け替えを遡ること900年以上前のことです。和気清麻呂の大和川付け替えとは、どんな工事だったのでしょうか。それを見る前に、そのころの大和川について、まず見ておきましょう。

 今から約5,500年前、大阪には海が広がっていました。これを河内湾と呼んでいます。縄文時代中期のことで、今よりも温暖だったため、海水面が高かったのです。

 それから気温の低下に伴う海水面の低下と、北からは淀川、南からは大和川の運ぶ土砂が水面を埋めて大阪平野を生み出すとともに、河内湾は河内潟に、そして河内湖へと変貌していきました。古墳時代中期(5世紀)ごろに、河内湖の水を海へ排水するために、今の大川(旧淀川)が掘削されたと考えられています。これが『日本書紀』にみえる「難波堀江」と考えられます。この間、大和川はなんども流路を変えながら平野を生み出していったのですが、中心となる流れは、現在の長瀬川に近いルートだったと考えられます。

 近畿自動車道やJR久宝寺駅前周辺での大規模な発掘調査によって、大和川の変遷が次第に明らかになってきました。その調査成果に基づくと、7世紀ごろには、現在の長瀬川のやや東を南から北へと流れる流路が大和川の本流だったようです。これを矢作ルートと呼んでいます。このころから玉串川筋にも水が流れるようになりましたが、平野川筋の流量は少なかったようです。

 ところが、矢作ルートが土砂の堆積で流れが悪くなると、その西の長瀬川に近いルートの流量が多くなったようです。そして、それ以上に、平野川ルートの流量が増え、平野川ルートが大和川の本流となったようです。和気清麻呂が付け替えようとした大和川とは、この平野川ルートのことだったようです。

 なお、その後平野川の流れが悪くなると、再び長瀬川筋が大和川の本流に戻り、江戸時代になるまで長瀬川筋が本流だったようです。

(文責:安村俊史)

7世紀の大和川の流れ
図1:7世紀の大和川の流れ

8世紀の大和川の流れ
図1-a:8世紀の大和川の流れ

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