~河内大橋10~

2017年7月25日

「河内大橋」を想う

 竜田道で山越えをすると、眼下に大阪平野が広がります。この景色は、今でも見る者の心をなごませますが、奈良時代にはもっと美しい景色をみることができたことでしょう。その景色を想像してみてください。遠くに上町台地が見え、難波宮や四天王寺も見えます。眼下には雄大な大和川が北へと流れ、その手前には寺院が甍を並べるように林立しています。朱と緑、屋根瓦の黒に彩られた寺院の建物です。そして、大和川に架かる丹塗りの「河内大橋」。山越えの疲れも吹き飛んだことでしょう。

 高橋虫麻呂の「河内大橋」の歌は、高台から見下ろして詠まれた歌だと考えられます。女性に声をかけても届かないほどの距離があったのでしょう。美しい橋と着飾った女性を見て、思わず詠みたくなった歌だと思います。

 次は、この景色を逆から見てみましょう。大和川左岸の渋河道を難波から大和へ向かうと、生駒山地の山裾に六つの寺院が並んでいます。近づくにつれて艶やかな寺院の伽藍が大きくなってきます。その前をさえぎるように流れる大和川。そして丹塗りの「河内大橋」。この橋を渡ると、仏教に彩られた世界に迷い込みます。人々は異世界を見るような思いで、この光景をみたのではないでしょうか。

 河内の渡来系氏族を中心とする知識らは、この大県郡の山裾に、仏教による理想世界を造ることを目指していたのではないでしょうか。そして、奈良時代にはそれが現実となっていたと思われます。聖武天皇や光明皇后、孝謙天皇も、この景観に酔いしれたことでしょう。

 ところが、都が長岡京、平安京へ遷ることによって、この地を天皇や貴族が通ることもなくなりました。何よりも、それを支えていた有力氏族らも次々と平安京周辺へと移ったことでしょう。経済的基盤がゆらぎ、目的もゆらぐと、知識は急速に衰退したようです。知識のシンボルであった智識寺の建物が応徳3年(1086)に倒壊しました。それは、この地の知識の倒壊でもあったのでしょう。華やかな歴史は100年余りで幕を閉じたのです。

 このような景色を創造できるのも高橋虫麻呂の歌のおかげです。虫麻呂の歌がなければ、「河内大橋」という橋があったこともわからなかったことでしょう。虫麻呂と、虫麻呂を刺激してくれた美しい女性に感謝です。

(文責:安村俊史)

河内大橋人面土器
写真:河内大橋のたもとから出土した人面土器

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