~河内大橋8~

2017年7月9日

行幸路の変遷

 奈良時代には、竜田道から渋河道が、平城宮から難波宮への行幸路として利用されました。竜田道は、もともと竜田大社の前を通って大和川右岸を進み、青谷遺跡付近で大和川を対岸へと渡って左岸を進み、石川を渡ってさらに大和川左岸の渋河道を進んで難波宮朱雀大路に入っていたと考えられます。しかし、天平12年(740)、天平勝宝元年(749)、天平勝宝8歳(756)の智識寺などへの天皇の行幸を考えると、奈良時代中ごろには、青谷で大和川を渡らず、そこから山中へ入って山越えで安堂付近へと下ったのではないかと考えられます。このルート上には、直線道の痕跡や切通しもみられます。このルートへの変更が、河内大橋の架橋と深く結び付いていたと考えられます。

 もとのルートでは、大和川と石川という二つの河川を渡らなければなりませんが、山越えのルートならば、大和川を一度渡るだけで済みます。そこに橋が架かっていれば、より便利でしょう。しかし、あまり高くないとはいえ、山越えのルートはやはり大変なのに、なぜあえて山越えのルートに変更したのでしょうか。その理由の一つは、駅制にあるのではないかと思います。

 近世の東高野街道は、平安時代には四国へ向かうための南海道でした。そして、安堂付近に馬を乗り継ぐための駅家があったことがわかっています。津積駅家です。また、奈良時代には斑鳩の西に平群駅家があったと『日本霊異記』に書かれています。津積駅家も奈良時代から設置されていたと考えると、平群駅家とともに平城宮、難波宮の往来のために設置された駅家だと考えることができます。馬を走らせる場合、できるだけ川越えを避けるほうが便利だったでしょう。難波宮造営に伴って、駅家も設置されたと考えられるのです。そして、この新ルートの設置にも知識が協力したのではないでしょうか。「河内大橋」を設置するだけでなく、行幸路も知識によって整備されたと考えます。それだけ、この地域の知識の経済力や動員力が大きかったのでしょう。

(文責:安村俊史)

河内大橋と娘子
写真:河内大橋と娘子復元模型

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