~竹原井頓宮3~

2017年4月24日

奈良時代の離宮

 行幸の際に天皇が宿泊した仮の宮を、『続日本紀』では離宮、宮、頓宮、行宮などと表記しています。『続日本紀』に複数回登場する離宮などに、甕原離宮、和泉宮、竹原井頓宮、芳野宮、小治田宮、弓削行宮、飽浪宮があります。甕原離宮は京都府木津川市の木津川左岸にあります。対岸には恭仁宮が造営され、のちに山城国分尼寺が創建された地です。木津川に面した景色のいいところです。和泉宮は和泉離宮、智努離宮、珍努離宮とも呼ばれ、和泉市府中付近にあったと考えられますが、その跡は確定できていません。海岸近くの景色のいいところで、元正天皇の愛した離宮でした。芳野宮は芳野離宮とも呼ばれ、吉野川右岸の宮滝遺跡がその跡です。小治田宮は飛鳥の雷岡の東で「小治田宮」と書かれた墨書土器が出土しています。古京である飛鳥の管理を兼ねた施設だったのでしょう。弓削行宮は、旧大和川が久宝寺川と玉櫛川に分かれる八尾市東弓削付近にあったと考えられています。称徳天皇の側近であった道鏡の出身地に設けられ、のちに西の京とも呼ばれた由義宮として整備されました。飽浪宮は法隆寺の近くにあり、聖徳太子を慕うために造られたのでしょう。離宮の多くは、川沿いの景色の美しい地に造営されています。

 これら複数回登場する離宮は、竹原井頓宮と弓削行宮以外、すべて離宮もしくは宮と表記されています。竹原井頓宮ものちに竹原井離宮となり、弓削行宮も整備され由義宮となっています。一方、一回しか登場しない仮の宮は、ほとんど頓宮または行宮と表記されています。どうやら離宮・宮と頓宮・行宮は明確に区別されていたようです。離宮・宮は常設の宮で、おそらく瓦葺き建物を伴うような施設だったのでしょう。それに対して頓宮・行宮は臨時的な宿泊施設で、掘立柱建物が中心だったのでしょう。

 このような使い分けを考えると、竹原井頓宮は、当初は臨時的な施設だったものが、いつの時期かに常設の施設として整備されたのではないかと考えられます。さて、それは発掘調査成果とうまく整合するのでしょうか。

(文責:安村俊史)

コラム竹原井3
奈良時代の離宮

お問い合わせ

文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話072-976-3430
ファクシミリ:072-976-3431