7.終末期群集墳

2017年3月24日

 激動の時代といわれる7世紀、日本は中央集権的な国家をめざして中国の知識・文化や技術を導入し、大きく変わっていきました。古墳の数は次第に少なくなっていきましたが、変質しながらも古墳は造られ続けました。飛鳥時代にあたるこの時期を古墳時代終末期ともいい、この時期に造られた古墳を終末期古墳といいます。

終末期の年代

 古墳時代終末期の始まりはいつなのか、難しい問題もありますが、一般に「前方後円墳が造られなくなって以降」を指すことが多いようです。「最後の前方後円墳」として、大和・河内では、欽明陵の可能性がある五条野丸山古墳(橿原市)、平田梅山古墳(明日香村)、舒明陵の可能性がある太子西山古墳(太子町)が候補にあり、その年代は6世紀後半もしくは末と思われます。しかし、蛇塚古墳(京都市)は7世紀に下る可能性があり、関東地方では7世紀初頭まで確実に前方後円墳が造営されています。ただ、墳形が円墳以外に方墳、八角形墳、上円下方墳などバラエティーに富み、豊富だった副葬品がほとんどなくなるという特徴が顕著に表れる7世紀前半が大きな転換点にあたるようです。

 「終末期の終わり」は、8世紀初頭の石のカラト古墳(奈良県奈良市と京都府木津川市の県境にある上円下方墳)が最後の古墳とすると、古墳時代終末期の年代は、7世紀初頭もしくは前半から8世紀初頭までの約100年間ということになります。

終末期群集墳の特色

 終末期群集墳は、7世紀になって造営が開始されるという以外にも、古墳時代後期の群集墳とは異なる特色が多数みられます。

【立地】
 後期の群集墳は平尾山古墳群のように尾根筋でしたが、終末期群集墳は尾根の南斜面に密集して、造営される場合が多いようです。調査前には古墳があるとは想像もできなかったような斜面地に造営される場合もあります。また、古墳の周囲を画する周溝を隣の古墳と共有する古墳もみられます。周辺に空いた空間があるのに、密集して営まれている古墳群が多いのも特色です。このような立地をとる理由は、風水思想など思想的・宗教的なものや、古墳の造営について厳しい制限が加えられていたことなどが考えられます。

【墳丘】
 墳丘は小規模になり、ほとんど盛土のない古墳もあります。また、盛土が雑だったこと、斜面地に造営されたことも影響し、大多数の古墳で墳丘が流失しています。そのため、大半の終末期群集墳が調査前にはその存在が確認できず、工事に伴う発掘調査などで発見されることが多いのです。

【埋葬施設の変化】
 埋葬施設である横穴式石室は小規模になり、玄室と羨道の境界が不明瞭となった無袖式横穴式石室や小さい袖をもつ片袖式石室へと変化し、その石室もさらに小規模になります。そして、7世紀中ごろから後半にかけて、横穴式石室は造られなくなりました。その後、木棺を覆うためだけの小さい石で囲んだ小石室へと変化し、7世紀後半には小石室もみられなくなります。その後も古墳の造営が続く場合は、木棺を直接地面に埋める木棺直葬へと変化します。そして、稀に木炭槨や横口式石槨(石棺式石室)などの埋葬施設もみられます。この埋葬施設の変化は、簡略化、省略化と理解できます。

【副葬品】
 副葬品は、身につけていた金環や鉄製の刀子(ナイフ)などに限られ、ほとんどみられなくなります。また、6世紀代は多数の土器が出土していましたが、終末期古墳では、須恵器・土師器の坏など土器の種類が限られ、量も少なくなります。これは、埋葬に伴う儀礼の簡略化の結果と考えられます。その背景には規制などとともに、埋葬や死への考え方に変化があり、死後の世界などへの意識が希薄になっていったと想像されます。

【追葬】
 後期の群集墳では一般的だった追葬がみられなくなり、1体埋葬が原則となります。古墳数の減少を考えると、埋葬される人物は、限られた人物のみとなり、その人物とは、数家族を代表する戸主のような人物が想定されます。

【どのような人々が造営していたのか】
 古墳は後期には、集団の力を誇示するモニュメントとしての性格もありましたが、終末期になると単なる埋葬施設へ変わっていきます。それでは、多くの集団が古墳の造営を終えるなか、終末期群集墳を造営できたのはどのような人々だったのでしょうか。おそらく、当時の政権に必要な技術や知識をもつ特別な集団、氏族だったと思われます。しかし有力集団というよりも、細々と古墳の造営を続ける集団というほうが、実際に近いのではないでしょうか。

柏原市の終末期群集墳

平尾山古墳群 雁多尾畑 第49支群

 柏原市の東部山間部一帯に広がる古墳時代後期から終末期の群集墳である平尾山古墳群のなかのひとつの小群が雁多尾畑第49支群です。標高350m前後の尾根南斜面に10基の古墳が造られていました。詳しくはこちら

平尾山10号墳全景
木炭槨の10号墳

田辺古墳群

 柏原市国分本町にあった終末期群集墳ですが、宅地造成のためにすべて破壊されました。西にのびる尾根の南斜面、標高70m前後の場所で19基の古墳が発見されています。古墳群の南西400mにある田辺廃寺を創建した百済系の渡来氏族である田辺史(たなべのふひと)氏の墓域ではないかと推定されています。詳しくはこちら

田辺古墳群全景画像
田辺古墳群全景
中央上部手前が古墳群

誉田山古墳群

 西名阪自動車道の南、柏原市旭ヶ丘から羽曳野市誉田・駒ヶ谷にかけての東西700m、南北800mの範囲に広がる古墳時代後期から終末期にかけての群集墳です。標高50~100mの尾根稜線上に50基前後の古墳が分布していたようですが、開発等に伴って大半の古墳が破壊されてしまいました。詳しくはこちら

安福寺所蔵夾紵棺(きょうちょかん)

 夾紵棺とは木または土を原型にし、それに布をあて、漆を塗りながら布を貼り重ねて造られた棺で、乾漆棺ともいわれています。限られた終末期古墳にみられるもので、かなり高貴な人物の棺に用いられたとされるものです。詳しくはこちら

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