堤を築く3

2016年9月19日

船橋遺跡の調査より

 1997年に、藤井寺市北条町で左岸堤防を断ち割って断面調査が実施されています。これは、水はけの悪い北条地区の雨水を排水するために、雨水ポンプ場を設置する工事に伴う調査でした。北条地区は、新大和川が造られてから、左岸堤防があるために雨水がうまく排水されず、滞水することが多くなっていたのです。新大和川建設に伴う迷惑が今でも続いているのです。左岸での洪水の増加は、つけかえ反対嘆願書にも反対理由としてとりあげられていました。

 調査の結果、つけかえ当時の堤防が、美しい台形に造られていることが確認されました。つけかえ当時の堤防は、基底部幅(根置)が約19m、上面の幅(馬踏)が約5m、高さが約3.6mでした。設計では根置13間(23.5m)、馬踏3間(5.4m)、高2.5間(4.5m)となっていますので、根置で4.5m、馬踏はほとんどかわりませんが、高さは0.9m低いことがわかります。長年の土圧などでつけかえ当時よりも堤防が若干小さくなっていると考えられますが、当初から設計よりもやや小さく造られていたのではないかと考えられます。
 積み上げられた土は砂質土が多く、南側から順に、小さな山を築くことを繰り返すように積み上げられています。南側が高くなっている理由は、左岸堤防に沿って設けられた落堀川の掘削に伴う土砂を積み上げたためと考えられます。

 その後、堤防は3回にわたって拡張されています。まず、北側(川側)へ拡張し、高さも1m高くしています。これは、宝永5年(1708)に落堀川の川底を掘り下げて、その土で大和川の堤防をかさ上げしたという記録に対応するのでしょう。
 その後、再び北側へ1m、高さも1.4mほど拡張されています。これは、享保元年(1716)に付近一帯を襲った洪水で運ばれてきた土砂を大和川の堤防に積み上げたという記録に対応するものと考えられます。

 この2回の拡張は、いずれも粒子の粗い砂を積み上げており、洪水によって運ばれてきた砂を積み上げたものと考えて間違いないでしょう。土砂の搬出と堤防のかさ上げという一石二鳥の方法ですが、砂を積み上げた堤防は、強度の弱いものとなり、あまり好ましいものではありません。

(文責:安村俊史)

船橋遺跡堤防断面
写真:船橋遺跡堤防断面(藤井寺市教育委員会提供)

船橋遺跡堤防断面図

:船橋遺跡堤防断面

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