~玉手山古墳群10~

2016年7月26日

玉手山古墳群の被葬者集団

 それでは、玉手山古墳群を造営した人たちは、どのような集団だったのでしょうか。大和の政権と対立していたのか、支配されていたのか、それとも協力関係にあったのでしょうか。さまざまな課題が浮かんできます。これまでの検討から考えてみたいと思います。

 まず、玉手山古墳群が築かれたのは、古墳時代の前期前半から中ごろまでです。この時期には、北河内に森古墳群あり、中河内の生駒山地山麓にも古墳がみられます。また、南河内は石川上流域に、規模の小さい古墳がいくつかみられます。しかし、河内平野には顕著な古墳はみられません。これらの事実から考えると、中河内の平野部から南河内にかけての地域を治めた集団が玉手山古墳群を築造したと考えられます。そして、玉手山古墳群は一系列の首長を中心とした古墳群と考えられますので、ある地域を拠点とし、中河内から南河内一帯を治めた首長が被葬者像として浮かんできます。その拠点は、玉手山古墳群最古の古墳が丘陵南寄りの9号墳であることから考えると、石川の対岸、船橋から国府付近を拠点とした集団ではないかと考えられます。それに続く3号墳、1号墳の立地や規模を考えると、この集団が成長して大和川水運を掌握するようになったのでしょう。

 墳丘形態や埴輪の特徴が大和古墳群などと深く関連していることから考えると、玉手山古墳群を築いた集団は、決して大和の政権と対立するような集団ではなく、むしろ大和の政権を支えるもっとも有力な集団だったと考えられます。

 大和盆地東南部の大王陵は、古墳時代前期後半に盆地北部の佐紀古墳群へと移ります。政権の中心となる勢力が取って代わったと考えていいでしょう。ちょうどこの時期に玉手山古墳群の造営が終了しています。淀川水運を重視する新しい政権の誕生によって、玉手山古墳群を造営していた集団は大打撃を被った、もしくは解体されたのでしょう。

 その後、古市古墳群が造営されるようになります。玉手山古墳群の終末から数十年を経ており、直接の系譜を考えることはできません。おそらく、新しく河内に入って来た大王によって古市古墳群が造営されるようになったのでしょう。その政権を支えた一つの勢力が、玉手山古墳群造営集団の末裔だった可能性は残されていると思います。

 このように、玉手山古墳群は古墳時代前期の社会を考えるうえで、非常に重要な古墳群なのです。多数の古墳が開発によって消滅してしまいましたが、まだ残っている古墳もあります。みなさんもいちど歩いてみませんか?

(文責:安村俊史)

玉手山1~3号墳
玉手山2号墳

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