~玉手山古墳群3~

2016年5月23日

玉手山古墳群の年代

 近年は埴輪の研究が進み、ある程度の量の埴輪が確認できれば、おおよその年代がわかるようになりました。古墳の場合、埋葬施設が未調査のものも多く、調査が行われていても盗掘などによって副葬品が十分にわからない場合も多いのです。それに加えて、副葬品は伝世することもありますが、埴輪は古墳の築造に伴って製作されるため、古墳の築造年代を示しています。また、大半の古墳から埴輪が出土するため、埴輪を比較することによって、どちらの古墳が古いか、あるいはどの古墳と同じ年代か、などがわかります。

 玉手山古墳群でも同じように、各古墳から出土した埴輪を比較すると、玉手山9号墳がもっとも古く、3号墳、1号墳、7号墳の順に築かれたと考えられます。しかし、1号墳よりも7号墳のほうが古いのではないかという人もいます。それぞれの研究者が注目する視点の違いによって、古墳の築造推定年代に多少の差が生じたり、古墳の前後関係が逆転したりすることもあるのです。ここでは、1号墳のほうが7号墳よりも古いと考えて記述を進めます。

 これら以外の古墳の埴輪はあまりわかっておらず、竪穴式石室の構造や副葬品の年代観も参考にすると、3号墳とほぼ同じ年代に6号墳、1号墳とほぼ同じ年代に2・5号墳、7号墳とほぼ同じ年代に4号墳と10号墳が築かれたと考えられます。8号墳は1号墳もしくは7号墳に近い年代だと考えられます。

 玉手山古墳群には、100m前後の規模の1・3・7号墳と80m前後、60m前後の規模の古墳がみられます。玉手山古墳群では、最初に約60mの9号墳が築かれ、その後3号墳、1号墳、7号墳の順に100m前後の古墳が築かれたと考えられます。すなわち、これら4基の古墳が玉手山古墳群を代表する古墳になります。集団のトップの人を首長と表現しますが、これら4基の古墳は、玉手山古墳群を築造した集団の首長墳と考えることができるのです。

 7号墳を最後として、100mクラスの古墳は築かれていません。それだけでなく、駒ヶ谷周辺の古墳を除くと、古墳そのものが造られなくなったのです。古墳時代中期の大王陵を多く含む古市古墳群最古の古墳、津堂城山古墳は玉手山7号墳が築かれたあと数十年を経て築造されたと考えられます。

(文責:安村俊史)

玉手山古墳群編年案

図:玉手山古墳群編年案(柏原市立歴史資料館『玉手山古墳群を探る』2003より)

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