~江戸時代の国分村9~

2016年5月30日

新町と国分船

 田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤などと呼ばれました。それまでも堤はあったのですが、大きなものではなかったようです。そして、堤の南側には水はけの悪い水田が広がっていました。奈良街道は、この堤の上を通っていましたが、広い道幅がとれず、洪水で道が崩れることもあったと考えられます。しっかりした堤を築いたことによって、堤の南側を埋め立て、そこに奈良街道を移して街道の両側に建物を建築しました。それまでの村は東の台地上に広がっていましたが、これによって村は西へと長くのび、この地は新町と呼ばれるようになりました。新町は、街道に面する町場として、さまざまな商売を営む人たちが住みつき、その後の国分村の発展に大きな役割を果たすことになりました。

 新町を開くとともに、国分船の運航も開始されました。国分船は、寛永16年(1639)に28艘で始められ、正保元年(1644)に35艘に増えました。大和川を大坂の京橋まで、上流は亀の瀬まで、また石川を遡って富田林まで運行していました。大坂からは干鰯などの肥料などを運び、大坂へは綿などを運びました。

 国分船は、旧大和川を運行する剣先船仲間に属し、古くからの古剣先船221艘に含まれます。剣先船は、舳先が剣のように尖った平底の川船でした。長さ11間3尺(17.6m)、幅1間1尺2寸(1.9m)で、十六駄(2160kg)積みでした。普通は6尺で1間ですが、ここでは5尺で1間と数えます。宝永元年(1704)の大和川付け替え後は、大坂から南へ下る十三間川を通って大和川河口に入り、明治まで営業を続けていました。

 国分船の船着場は、現在の国豊橋のすぐ上流に設けられました。大和川上流の亀の瀬には魚梁荷場(やなにば)という船着場があり、ここで荷揚げされた荷物は、陸路で峠を越えて大和に入り、再び船に積み込まれて大和各地へ送られました。魚梁荷場には龍王社(浜神)という祠があり、寛政3年(1791)に剣先船仲間が奉納した石灯籠が残っています。

 田輪樋・風戸堤の築造、国分船の運航などは、国分村の有力者によるものですが、ときの領主の稲垣重綱の理解や支援も大きかったようです。東条墓地に「小禹廟」と呼ばれる石塔があります。宝暦3年(1753)5月に、稲垣重綱の百年忌に際して国分村の船持仲間が建立した石塔です。国分村の人々は、この石塔を「小禹廟」と呼び、稲垣重綱の功績を治水事業によって中国の夏王朝を創始したといわれる禹になぞらえて称えました。

(文責:安村俊史)

龍王社の石灯籠

龍王社の石灯籠

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