~江戸時代の国分村8~

2016年5月23日

田輪樋

 国分村の北を流れる大和川は、芝山を迂回して大きく北へ湾曲しています。当然ながら、芝山の南側の堤防への水当たりが強くなり、芝山の南側は古くから洪水の被害を何度も受けてきました。この地には何度も水田が開かれたようですが、すぐ水につかり、一度たまった水はなかなか引きませんでした。この排水不良を改善するために芝山の西に掘削されたのが田輪樋です。地元では、「たのわのひ」あるいは「たのひ」と呼ばれています。

 領主であった稲垣摂津守重綱の協力を得て、国分村の東野伊右衛門が寛永年間(1624~44)に工事に着手し、正保元年(1644)に完成したようです。芝山の周辺は、玄武岩や安山岩という堅い火山岩でできています。これを芝山火山岩といいますが、この堅い岩盤を掘り進めてトンネルを掘るのですから、それはたいへんな工事だったでしょう。「金山堀」という記録があることから、鉱山を掘削する技術者や労働者を雇って掘り進めたようです。

 樋の長さは123間(224m)で、内法は5尺(150cm)四方でした。樋の内側は四面とも板張りでした。板一枚の長さは5尺(150cm)、幅は1尺5寸(45cm)、厚さが4寸(12cm)の杉板でした。この板を横長に並べ、板と板はかすがいで打ち付けられていました。板の内側の寸法は4尺2寸(127cm)四方になります。岩盤なので板は必要ないようにも思うのですが、節理面で崩落しやすい玄武岩の性質による措置だったのでしょう。

 樋の入口部分には、水量を調節する戸関が二箇所に設けられていました。一箇所は南からの悪水(排水)を抜くもので、本来の目的のものです。もう一箇所は田へ水を送る用水の余った水を流すためのものでした。樋の出口は大和川に開いています。そして、出口から水が逆流するのを防ぐため、川の左岸と平行に長さ135間(245m)もの堤が築かれていました。

 この樋が設置されたことにより、400石余りの水田が上田に回復するとともに、37石の新田を開くことができました。この樋の設置に尽力した東野伊右衛門は、新田のうち2石4斗5升の高の土地を永代にわたって年貢のかからない除地とすることが認められていました。江戸時代の樋は昭和25年(1950)のジェーン台風で壊れ、その西側に新しく築かれた樋が現在も使用されています。

(文責:安村俊史)

田輪樋御普請所絵図A

田輪樋御普請所絵図B

田輪樋御普請所絵図C

「田輪樋御普請所絵図」
 本企画展のポスターや図録の表紙に使っている絵図です。紙をめくっていくと、樋の内部が見えるように工夫されています。

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