~江戸時代の国分村3~

2016年4月11日

国分村の人口など

 国分村を治めていた領主は、江戸時代のはじめには幕府領と大坂城代や京都所司代の支配を繰り返していました。たとえば、寛永8年(1631)から慶安4年(1651)までは大坂城代稲垣重綱の支配でした。そのほかに、京都所司代の牧野親成や永井尚庸らの支配と幕府領とを繰り返していました。その後、享保15年(1730)以降は、幕末に至るまで一貫して幕府領となっていました。また、17世紀代は村高のうち100石が旗本の福富領となっていました。

 江戸時代の村では、検地によって米の生産高が決められており、これを石高(こくだか)、村の石高を村高といいました。なので、実際の米の収穫量と必ずしも一致するものではありません。この村高に基づいて、年貢や諸役が課せられました。そして、それをとりまとめる庄屋、年寄(としより)などの村役人がおかれていました。国分村には3人の庄屋がいて、村を分割して管理していたことがわかっています。

 国分村の村高は、江戸時代のはじめで1250石余り、享保15年(1730)には1285石余り、元文2年(1737)には1328石余り、宝暦9年(1759)には1475石余り、明治元年(1868)には1478石余りとなっていました。新田開発などで、少しずつ村高が増えていました。近隣で大きな村だった柏原村でも1200石足らずなので、国分村がいかに大きな村だったかがわかります。

 それでは、国分村にはどれくらいの家があり、何人の人が暮らしていたのでしょうか。享保15年(1730)の『国分村明細記』という村の記録によると、家数は716軒で人口は3,108人とあります。人口の内訳は男1.406人、女1,684人、僧18人となっています。女性のほうが2割ほど多かったことがわかります。また、僧は男女の数に含まれていません。そのほかに、馬が60疋、水車が3両あったことなどがわかります。

 明治2年(1869)の『明細書上帳』では、家数が550軒、人口2,447人となっています。江戸時代の後半のあいだに、家数も人口も2割以上減っていたことがわかりますが、その原因についてはわかりません。これから探っていきたいと思っています。また、牛5疋とありますが、馬の記録がありません。馬はいなくなっていたのでしょうか。やはり柏原村の人口は1,400人前後なので、国分村の人口がいかに多かったかがわかります。

(文責:安村俊史)

宗門人別御改帳

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