~江戸時代の国分村1~

2016年3月27日

国分村の位置

 平成28年3月26日からの春季企画展では、江戸時代の国分村を紹介します。これまで、あまり知られていなかった国分村の江戸時代を中心とする古文書、約1万点の整理を終えたことに伴って、その成果を皆さんに紹介したいと思います。まずは、国分村のあらましを述べていきます。

 江戸時代の国分村は、現在の柏原市の南東部、大和川の左岸にありました。村の名は、古代に河内国分寺があったことに由来します。江戸時代には、河内国安宿部郡国分村(かわちのくにあすかべぐんこくぶむら)といいました。

 江戸時代の安宿部郡は、柏原市域の大和川より南、石川から東にあたります。その中で、国分村の範囲は、北は大和川、東は大和との国境、西・南は原川までで、南西部では一部原川を越えて玉手山丘陵の東斜面へものびていました。北は大和川をはさんで大県郡高井田村、青谷村があり、二つの村とのあいだには、小舟による渡しがありました。西は同じ安宿部郡内で、北から片山村、玉手村、円明村と接していました。東と南は、険しい明神山系の稜線を越えて、大和国の藤井村、畠田村、関屋村、田尻村などと接していました。

 国分村の中心は、現在の国分本町、国分市場にあり、そこから離れて東条(ひがんじょう)、六軒(ろっけん)、田辺があり、これらを含めて国分村でした。村の中心部は奈良街道に沿って東西にのび、村の西側は新町と呼ばれました。東条は、国分村の南東部、現在の国分東条町で、明神山系の山裾に位置します。六軒は、大和の関屋へ越える関屋越えに沿う高台にあたり、国分本町7丁目の阿弥陀寺周辺です。田辺は、現在の田辺、春日神社の西にありました。

 標高273.7mの明神山から南西へのびる明神山系が村の南東部を画し、大和国との国境となっています。明神山系の北斜面は断層によって急斜面となっています。国分村の中心部は台地上にあり、この台地から北東へ、松岳山古墳のある細い尾根を経て標高112mの芝山に至ります。大和川は芝山を大きく迂回して北へ湾曲しています。田辺周辺も台地で、国分村の中心部がある台地とのあいだには、田辺池から北西へのびる谷地形がみられます。台地の東西には湿地が広がっていて、水田として利用されていましたが、東は大和川、西は原川の氾濫によって、しばしば被害を被った地でもありました。

(文責:安村俊史)

国分村の位置
国分村の位置

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