~おひなさん2~

2016年1月18日

ひひな遊びからひな人形へ

 女の子のお人形遊びと上巳の祓(じょうしのはらえ)が結びついて、ひな人形が誕生したのですが、初めのころのひな人形はどんな人形だったのでしょう。

 江戸時代の初め、400年くらい前のひな人形は、「立びな」と呼ばれる紙でできた、立ち姿の人形でした。これを壁などにもたれさせて立てたのです。紙でできているため、「紙びな」とも呼ばれます。男(お)びなと女(め)びなが一対になっており、男びなは袖を左右にぴんとのばしています。女びなは腕の表現がなく、細長いかたちにつくられています。今でも、立びなを描いた壁掛けなどをみかけることがあります。

 それでは、立びなはどのようにして生まれたのでしょう。よくわからないのですが、人形(ひとがた)から生まれたとも考えられます。「天児(あまがつ)」や「這子(ほうこ)」もモデルになったのではないかとも言われています。

 「天児(あまがつ)」とは、木の棒をT字形に組んで、白い絹に目鼻を描いた頭部をつけたもので、これに着物を着せたりしました。宮中や公家のあいだで、新生児のお守りとして枕元に置かれた信仰的な人形です。

 一方の「這子(ほうこ)」は、ぬいぐるみのようなもので、体から三角状にとがる手足がのびています。顔の表現はなく、ふつうは着物も着ていません。赤ん坊が這い這いをする姿をかたどったものとされます。飛騨の「さるぼぼ」などが、この形態を残しています。これら「天児」や「這子」が人形の原型で、そこからひな人形が生み出されたとも考えられていますが、かたちはずいぶんと違っています。

 江戸時代の前期、17世紀の中ごろに座ったひな人形がつくられるようになり、ひな人形の風習とともに、急速に広まっていきました。それでも、江戸時代を通じて立びなを一緒に飾ることが多かったようです。やがて男女一対のひな人形が定着し、「内裏びな」と呼ばれるようになりました。

 ところで、サトウハチロー作詞の童謡「うれしいひなまつり」の歌詞に、「お内裏さまとお雛さま」というところがありますが、男びなと女びなを一対で内裏びなといい、ひな人形もこの一対の内裏びなのことなので、この歌詞は間違っています。この歌から、男びなを内裏びな、女びなをひな人形と思っている方が多いようです。サトウハチローも誤りに気付き、晩年まで気にしていたという話もあります。

(文責:安村俊史)

あまがつとほうこ

天児(あまがつ)と這子(ほうこ)

お問い合わせ

文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話072-976-3430
ファクシミリ:072-976-3431