小松山の戦いこぼればなし(8)

2015年6月29日

吉村武右衛門と伊予の又兵衛墓

 又兵衛の首を深田に埋めたとされる吉村武右衛門は、又兵衛が黒田家に仕えていたころからの又兵衛の家臣だったようです。武右衛門は、夏の陣後に名を水井佐兵衛と改め、摂津国喜連村(現在の大阪市平野区喜連)に潜んでいたといいます。大坂城に近い喜連で、ほんとうに身を隠すことができたのでしょうか。武右衛門は、そこで蔭涼庵という寺院を開き、僧として又兵衛の菩提を弔っていたということです。そして、いつのころか密かに又兵衛の首を掘り出し、伊予(現在の愛媛県伊予市)へ運んで又兵衛の墓をつくったというのです。

 では、なぜ伊予なのか。伊予には、又兵衛の伯父が僧であった長泉寺という寺院がありました。ここには又兵衛の五男とされる基芳が預けられていました。妻も一緒だったともいいます。その長泉寺に武右衛門が又兵衛の首を届けたというのです。長泉寺は伊予市宮原に現存します。松山から車で20分ほどのところで、畑に囲まれたのどかなところです。又兵衛の墓は、現在は近くの農家の敷地内にあり見ることはできませんが、長泉寺の境内に昭和40年(1965)に350年忌に建立された供養碑があります。供養碑には「豊雲院基安蓮岳大居士」と刻まれ、伊予市の指定文化財になっています。

 さて、これらがどこまで事実なのか、今となってはわかりません。基芳は、その後玄哲と名を改め、医者として活躍したことは事実です。

 伊予には、これ以外にも又兵衛が生きて伊予に潜伏していたという話や、道後温泉の湯につかっていた又兵衛を地元の農民らが襲って首をはねたという話なども伝わっています。この首を又兵衛の首として幕府に差し出したところ、又兵衛は夏の陣で亡くなっており、でたらめだということで逆に処罰されたともいいます。これらの話に、又兵衛と伊予との少なからぬ関係をみることができます。

(文責:安村俊史)

 供養碑

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