小松山の戦いこぼればなし(7)

2015年6月18日

毛利隊・真田隊の遅参

 真田信繁(幸村)隊が道明寺の戦いに遅れ、又兵衛隊の苦戦の一因となったという話は有名です。それでは、なぜ真田隊は遅参したのでしょうか。時間経過をたどりながら考えてみたいと思います。

 まず、天王寺に陣取っていた毛利勝永と真田信繁は、5日の夜に後藤又兵衛が陣を敷く平野で戦いの打合せをしています。そして、明朝(6日)に道明寺に集合して、徳川方との決戦を迎えるということになりました。夜なので8時か9時ごろでしょうか。その後、又兵衛隊は0時ごろに平野を出発して道明寺に向かいました。

 しかし、毛利勝永、真田信繁はそれから天王寺の自隊に戻り、作戦を説明し、準備を整えて進軍となると、夜明け前に道明寺に到着することは、かなり無理があるように思います。通説のとおりでいいのでしょうか。準備を整え、最後の戦いに備えて腹ごしらえをし、酒を酌み交わして出発したのは、夜明け近くだったのではないでしょうか。

 毛利隊は、天王寺から藤井寺経由で道明寺に到着したのが6日の10時ごろのようです。すでに後藤隊は壊滅状態にあり、石川の対岸からその様子を眺めるだけで、手出しできなかったようです。毛利隊は平野までは奈良街道、平野からは後藤隊と同じく中高野街道、長尾街道を利用したのでしょう。このルートならば約16km。通常ならば4時間あれば到着できるはずです。

 真田隊は、住吉街道を通り、巴引野(羽曳野)から誉田へ到着したのが11時ごろでした。後藤隊が壊滅したあとです。霧が深かったために遅れたというのはよく知られていますが、夏に霧が出るのかという疑問も出されています。ただ、八尾・若江の戦いでも霧が深く、戦いは混乱を極めたという記録がありますので、当日霧が深かったのは確かなようです。住吉街道がどの道を指すのかよくわかりませんが、竹内街道を利用したことは間違いないようです。天王寺から下高野街道を南下し、竹内街道を東へ進むルートと考えられます。かなり迂回路になりますが、大軍の移動に際して、毛利隊と同じ道を避けた結果でしょう。このルートならば20km近くの距離になります。毛利隊の到着時刻を考えると、真田隊もそれほど遅れたとはいえないように思います。

 このあと、真田隊を中心に、道明寺から誉田で激戦がくり広げられます。

(文責:安村俊史)

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